東本願寺沖縄別院は宜野湾市大山にある真宗大谷派の寺院です

    東本願寺沖縄別院

    東本願寺沖縄別院は東本願寺(京都)を本山とする「真宗大谷派」の直轄する寺院です。
    沖縄別院では葬儀や法事を執り行うだけでなく、聞法(仏教の話を聞くこと)を通して私たちの苦しみや悲しみに向き合う場を大切にしています。
    毎週土曜日には「土曜礼拝」を開き参加者と一緒に声を出して正信偈(親鸞聖人作の偈[うた])をお勤めし、法話を聞き、その後、茶話会を開いています。
    どなたでも参加できますのでお気軽にお越しください。 皆様のご参加を心よりお待ちしております。

    東本願寺を知る 浄土真宗の教え

    法事についてご相談

    法事・起工式・お骨・お位牌のお預かり/お骨・お位牌の永代経(永代預り)のご相談。

    土曜礼拝・公開講座のご案内

    個人から社会の大きな課題まで、仏教に学んでみませんか。

    グリーフケアのご案内

    最愛の人をなくされ、深い悲しみもある皆さんがその思い出を語る場を開いています。

    土曜礼拝

    期日 毎週土曜日
    午前10時〜12時
    内容 勤行と法話

    学習会

    期日 第2、4水曜日 午後2時〜4時
    営業時間 親鸞聖人の記された著作やお手紙を中心に、現在『和讃』(親鸞聖人が作られたうた)を読んでいます。

    ※輪読会、同朋の会は、日時を変更することがありますので、参加希望の方は事前にご連絡いただけると確実です。
    ※この他に公開講座がございます。詳しくは新着情報をご確認ください。

    新着情報

    ペットロスグリーフケア

    今回、グリーフケアの会「値遇の会」では特別企画として、ペットロスを対象とした悲しみを分かち合う会を開催します。 皆様のご参加をお待ちしております。   期日:2025年9月28日(日) 時間:午後2~4時 場所:東本願寺沖縄別院 ※事前(当日可)に電話・ラインでお申し込みください。  
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    【抗議声明】米兵による女性への暴行事件に抗議します

    以前も掲載いたしましたが、昨今の在沖縄米軍、および米軍族の度重なる犯罪等を鑑み、再掲載いたします。記の通り、抗議します。   【抗議声明文】 米兵による女性への暴行事件に抗議します   在沖米軍所属の米兵による16歳未満の少女に対する拉致暴行事件が昨年の12月に発生していたことが、今年6月の終わりごろの報道により明るみに出ました。被害を受けた方の痛みと苦しみが余人には測り難い深いものであることを思うと、事件を防ぐことのできなかった社会の甘さを悔やんでも悔やみきれない思いがいたします。まずはこのことを被害にあわれた方にお詫び申し上げなければなりません。 そして、米軍関係者による性暴力事件が、今年の5月とさらに他3件、2023年以降で合わせて5件も沖縄で発生していたことが今になってようやく明らかにされました。事件化されることが氷山の一角であることを考えると戦慄をおぼえると同時に、そのことが担当機関から沖縄県及び地域に暮らす人々に速やかに報告されなかったことに、激しい憤りを感じます。 戦後、米軍との不均衡な関係の中で軍人軍属による犯罪が繰り返されてきました。すべてのいのちが平等に重んじられる「命どぅ宝」社会の実現を願う沖縄の人々にとって何よりも排除されなければならない性暴力犯罪が、長年不平等を強いられている過重な米軍基地負担により頻発することは、あまりにも理不尽な現実だと言わざるを得ません。  性暴力は、他者を自己の欲求を満たすための道具として扱う、尊厳の蹂躙の最たるものです。くわえて、被害に遭われる方が女性や年少者であるケースが圧倒的に多いことは、男性中心社会が剥きだす牙の恐ろしさの表れでもあり、このような社会構造の継続を許すことは私たちがいただく仏教の教えとは到底相いれないものであります。その意味で、こうした事件が後を絶たないことに、仏教徒としても大きな責任を感じております。  阿弥陀如来の本願には全ての人が平等に救われることが願われています。一部の人の犠牲の上に成り立つ社会ではなく、外見や社会的立場、肌の色や性の違い等による不平等のない世界が願われています。また、自分以外の全てを、自己の欲求を満たすための手段とすることのない世界が願われています。  この本願をよりどころとする仏教徒として、今回の一連の事件と沖縄が置かれている状況に対する強い抗議の意を、全ての日本人及び米国人の前に表明します。そしてこの事件をとおして、自己の欲望を満たすために周りの人を利用していこうとする私たち一人ひとりのあり方が問われているのだということを確認いたします。  最後に、被害に遭われた方の苦しみがいくばくかでも癒されることと、二度とこのような事件が繰り返されないことを念じながら、この事件に抗議の声をあげられている方々と共に歩みたいと思います。  2024年7月12日 真宗大谷派 東本願寺沖縄別院 輪  番 長谷 暢  門徒総代 照屋 隆司
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    【声明】米兵による女性への暴行事件に抗議します (日本語)

    【抗議声明文】 米兵による女性への暴行事件に抗議します   在沖米軍所属の米兵による16歳未満の少女に対する拉致暴行事件が昨年の12月に発生していたことが、今年6月の終わりごろの報道により明るみに出ました。被害を受けた方の痛みと苦しみが余人には測り難い深いものであることを思うと、事件を防ぐことのできなかった社会の甘さを悔やんでも悔やみきれない思いがいたします。まずはこのことを被害にあわれた方にお詫び申し上げなければなりません。 そして、米軍関係者による性暴力事件が、今年の5月とさらに他3件、2023年以降で合わせて5件も沖縄で発生していたことが今になってようやく明らかにされました。事件化されることが氷山の一角であることを考えると戦慄をおぼえると同時に、そのことが担当機関から沖縄県及び地域に暮らす人々に速やかに報告されなかったことに、激しい憤りを感じます。 戦後、米軍との不均衡な関係の中で軍人軍属による犯罪が繰り返されてきました。すべてのいのちが平等に重んじられる「命どぅ宝」社会の実現を願う沖縄の人々にとって何よりも排除されなければならない性暴力犯罪が、長年不平等を強いられている過重な米軍基地負担により頻発することは、あまりにも理不尽な現実だと言わざるを得ません。  性暴力は、他者を自己の欲求を満たすための道具として扱う、尊厳の蹂躙の最たるものです。くわえて、被害に遭われる方が女性や年少者であるケースが圧倒的に多いことは、男性中心社会が剥きだす牙の恐ろしさの表れでもあり、このような社会構造の継続を許すことは私たちがいただく仏教の教えとは到底相いれないものであります。その意味で、こうした事件が後を絶たないことに、仏教徒としても大きな責任を感じております。  阿弥陀如来の本願には全ての人が平等に救われることが願われています。一部の人の犠牲の上に成り立つ社会ではなく、外見や社会的立場、肌の色や性の違い等による不平等のない世界が願われています。また、自分以外の全てを、自己の欲求を満たすための手段とすることのない世界が願われています。  この本願をよりどころとする仏教徒として、今回の一連の事件と沖縄が置かれている状況に対する強い抗議の意を、全ての日本人及び米国人の前に表明します。そしてこの事件をとおして、自己の欲望を満たすために周りの人を利用していこうとする私たち一人ひとりのあり方が問われているのだということを確認いたします。  最後に、被害に遭われた方の苦しみがいくばくかでも癒されることと、二度とこのような事件が繰り返されないことを念じながら、この事件に抗議の声をあげられている方々と共に歩みたいと思います。  2024年7月12日 真宗大谷派 東本願寺沖縄別院 輪  番 長谷 暢  門徒総代 照屋 隆司
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    今月の予定
    1月1日 修正会法要
    4月 花まつり/清明祭法要
    非戦・平和沖縄研修会(沖縄開教本部主催)
    5月 玉代勢法雲師祥月命日法要
    6月 沖縄戦戦没者追弔会法要
    8月 盂蘭盆会法要
    9月 沖縄別院物故者法要
    10月 東本願寺沖縄別院「親鸞聖人報恩講」
    12月 成道会法要
    除夜の鐘(兵戈無用の鐘撞)
    定例法要 毎週土曜日 土曜礼拝
    毎週水曜日 学習会(輪読会)
    不定期 公開講座(年数回) 別院および県内各地にて
    その他の学習会 50歳くらいまでの若い世代で、仏教・浄土真宗を学んでいます。 曜日・時間帯・内容によって2つありますので、興味のある方はお気軽にご連絡ください。(担当/西田)

    その他の学習会 1

    開催日 毎月最終金曜日
    時 間
    18:30~20:00
    場 所 Zoomオンライン(顔声有)、または沖縄別院
    対 象 どなたでも
    参加費 無料
    形 態 輪読会・座談会(テキストを共有し回し読みします)

    その他の学習会 2

    開催日 月一回土曜日(日にちは変動します)
    時 間 13:00~
    場 所 Zoomオンライン(顔声有)、または沖縄別院
    対 象 どなたでも
    参加費 無料
    形 態 僧侶作成の資料(PPT)・ゆんたく(内容は前月の時みんなで決めます)

    お坊さん紹介

    東本願寺沖縄別院のご法要や行事などで皆さまとご縁をいただく僧侶のご紹介いたします。

      「モノ買ッテクル 自分買ッテクル」

      富山県にある真宗大谷派・砺波別院「瑞泉寺」を7月末に訪問した。以前当別院の成道会の講師にお越しいただいた亀淵輪番とも再会でき、とても興味深く学びの多い時間を過ごすことができた。中でも別院に隣接する元「同朋研修道場」を活用した宿泊施設「杜人舎」に宿泊した。驚いたのはそれなりというか、かなり田舎の山のふもとの寺院に、外国の方が多く宿泊していることであった。7割ほどは外国人だというのである。決して贅沢なつくりではない。元「道場」なだけに、風呂とトイレは共用である。かといって格安というわけではない。そして朝には別院の朝のお勤めに参詣されるそうである。私が泊まった日も欧州の一家が滞在していて、朝のお勤めにもお参りされていた。きっと日本語がわかるわけではないし、ましてお勤めができるわけでもなく、仏教徒ですらないはずである。そんな方々が勤行と法話の約1時間弱の時間を早朝の本堂で過ごされていた。さて宿泊部屋も趣向を凝らしたというか「民藝」というコンセプトが打ち出された部屋で、床の間には沖縄ともゆかりの深い陶芸家・河井寛次郎の標題の言葉が掛けられていた。その掛け軸に向き合いながら、私の買ってきた持ち物こそに、私自身が現れ出ているのだと気づかされた。そして手元を見渡すと、実にくだらないもの、使い捨てにするものが多いことか…。これが私かと思うとゾッとする。しかし一方で私はいかにも「凡夫」であると教えていただいているのである。
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      「わたしファースト」

      7月は参議院選挙があり、様々な政党がそれぞれの主張を繰り広げました。課題山積の中、注目の選挙でした。わたしが今回の選挙で注目したのは「ファースト」です。近年は「アメリカファースト」に始まり「都民ファースト」「日本人ファースト」と、日本のみならず世界中で「ファースト」がもてはやされますが、これは結局「わたしファースト」なんじゃないかと。  常日頃、お寺では「我執のために、私の都合を最優先し、結果、地獄を生み出していく私たちの姿が、如来のまなざしから罪悪深重の凡夫であると指摘されている」と聞いてきました。私たちはほっておくと、自分と自分の周辺、またはその仲間たちを最優先する方向で生きており、そこに苦悩が生まれてくるわけです。最近では「分断」という事で社会と人間関係が断絶するという現象が起きています。考えてみれば「ファースト」とした以上、それ以外は「セカンド」2番手以降となります。 さて米国との関係で日本は一体何番目でしょうか?歴史と現実を見渡すと、沖縄が戦後ずっと背負わされ続けてきた米軍基地の実態を知れば、「ファースト」以外の人々は、「ファースト」の集団を支える手段ににしか見えなくなっていくのかもしれません。 弥陀の四十八願の十番目に私たちが「我と我の所有物」(第4願)の関係を生きていることが指摘されています。 「ファースト」が実現した時に、その他の人々の姿は見えなくなるのです。だからこそ、共に生きている事実に帰って、共に生きる願いとして、念仏の呼び声があるのです。今一度、仏教、仏陀の教えに立ち返り、「自己を習」いましょう。
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      「念仏には、無義をもって義とす」

      先月の別院だよりの「無義の義」 について少し私の了解するところを述べたい。 この言葉は歎異抄に出てくる言葉で「念仏に対しては、私共の思慮分別(はからい)を加えないことをもって本義といたします」 (多屋頼俊訳『歎異抄』)という意味として受け取っている。 念仏の教えが「無義」 なのではなくて、念仏の教え・本願に向き合う私たちの姿がが示されていて、このことがわかっていないから 「異義」が生まれるのだという。(参考『歎異抄』阿満利麿) さて、 今建設が進められている辺野古の新基地については、 多くの反対がある中、賛成する少数の人がいるのは確かである。 中には生活の糧を見出そうとする人もいることは事実であろう。しかし一方で、そこにつぎ込まれる莫大な税金は、 私たち一人ひとりが支払っている一部であることも間違いない。 このような賛否が分かれる事象は無数にある。 身近な事から世界で起きている戦争、環境問題にまである。 いや意見が対立しない事象などないのかもしれない。 例えば先月は沖縄戦から八十年を迎えたが、 世界はますます 「命どぅ宝」 を蔑ろにする論調が広がっている。「命は平等である」という事が自明のことでなくなりつつあるように感じている。 この「命は平等である」ことについて賛否がある際、念仏はどちらにも立たないという事を先の言葉が表しているわけではない。 弥陀の本願はすべての命が平等であるとしている。 この本願に対して私の都合をよりどころとして、「よい」とか「わるい」とか、「はからい」を加えないという事が、 「無義をもって義とす」とすという事が、指し示すことなのであろう。
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      【抗議】沖縄戦の史実を蔑ろにする発言

      憲法記念日に沖縄で開催された講演会で、自民党の国会議員である西田昌司氏の発言について抗議の意を表明したい。 ひめゆり平和祈念資料館の展示及び沖縄戦の積み重ねられてきた証言と、それに基づいた教育を蔑ろにした発言であったと了解している。   発言があった講演会の主催者には、 特定の宗教団体も名を連ねていて、その宗教の宗旨に沿ったものなのかも知れない。しかし東本願寺沖縄別院では、これまで幾人もの沖縄戦経験者、元ひめゆり学徒の方々を含め地上戦の凄惨な証言を聞いてきた。 その中には日本兵による沖縄住民への加害の事実もあった。そして戦前の戦争に加担したことを宗派としても懺悔している。 その上で戦争の悲惨さや沖縄を捨て石にし、犠牲を強いたことを忘れず歩み続けてきたこれまでがある。 これは「自虐」などいうものではない。実際に起きた事実に向き合い、沖縄戦で起きた人間を蔑ろにする戦争の実態に触れ、その事実に立ち、 歩む方向が見定められてきた。 それは他でもない願生浄土の仏道に立つということであると私は了解している。 史実を前に、 自分の都合を優先する分別に立つならば、「自慰」的な歴史観に心地よさを感じるに違いない。 しかし浄土を拠り所として、 自己の分別を立場とするあり方を懴悔し、 私たちが同じ過ちを繰り返さないために、間違いを間違いと認め、 反省の上に立って、 歩まれた先達たちに続くものでありたい。 そして仏教の教えによって戒められている、人を殺すな、 殺させるなという教えを、 私たちの都合で修正せず、これまで積み上げられてきた証言と史実を聞き続けていきたい
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      「かわいそう」と思う「日ごろの心」②

      「かわいそう」と思う「日ごろの心」②  前号からの続きです。3月に聞いた法話で感じたことを記しています。「健康・家族・お金」が人生の大切な事という「物差し」で分別して生きているのが私たち「日ごろの心」であるという事でした。このような生き方を端的に表現した言葉をご紹介いただきました。 どうにかしないと幸せでない者は どうなっても幸せでない者や     宮戸 道雄 〇〇になれば幸せになれると思って、一生懸命努力して生きている私たちです。私も結構頑張って生きています。でも、その先に本当に「幸せ」は待っていないと仏教は教えているというのです。私たちは実に理にかなわない生き方をしていて、それを教えてくれるのが仏教なのです。  「ただ念仏のみ」が私たちを「極楽浄土」へと導くというのです。極楽はインドの古い言葉で「幸あるところ」という意味です。念仏すると幸ある世界に行けるというのはどういう事でしょうか。 日ごろの心では往生かなうべからず    『歎異抄』 確かに、若くて健康な頃に、家族がいて、仕事もあるので経済的に問題がない間は、「幸せ」かもしれません。ところが歳を重ねるうちに、いろんなところが悪くなります。私も最近は老眼と腰痛に苦悩するばかりです。また子どもたちの成長とともに、二人の生活になることでしょう。そしてお金について物価だかや、将来の年金の話を聞くにつけ、不安になるばかりです。  幸せの要件が「健康・家族・お金」なら、その要件は崩れることが常です。この当たり前のことをいつも忘れて生きる私たちの姿を、まずは教えてくれるのが真宗・仏教なのだと教えていただきました。
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      「かわいそう」と思う「日ごろの心」①

      先月ある法座で聞いた話が私の心にグサリと突き刺ささりました。私たちが人生で大切にしているものは何かというアンケートをとると、「①健康・②家族・③お金」という結果となるようです。そしてこの基準に漏れている人を「かわいそうな人」だと誰もが勝手に思っているというのです。 自分のこともそうですが、他人のことだと特によくこの私たちの心が現れます。例として挙げられたのが、あるエリート社員が、ガンを患ったことをきっかけに、退職し、離婚することになってしまったそうです。それでもお子さんと生きていくために、病状が回復した際に、次の仕事をしするための準備のため借金をしたそうです。その矢先に再発して亡くなられたそうです。この人は地域では面倒見の大変良い、「いい人」だったので、住職も含めて「かわいそうに」と思ったそうです。通夜の際には弔問の人が長い列をなし、口々に喪主の息子さんに「かわいそうに」と声を掛けられたようです。ところが葬儀の最後に喪主の挨拶で息子さんは「父はかわいそうな人ではありませんでした」と言ったそうです。それを聞いた住職はドキッとしたというのです。 私も話を聞いていてドキッとしました。わたし自身が、幸せの条件を「健康、家族、お金」としているので、それらから漏れている人を「かわいそう」と思っているのです。しかしすぐわかることですが、この条件はいずれも「無常」なるものです。時と場合によってどんどん変わっていくものです。 これが私たちの「日ごろの心」の内実です。親鸞聖人はこの心では浄土に往生できないとおっしゃいました。つまり幸せになるために「健康と家族とお金」という物差しで、自分と他人を「測って」比較して、それを追いかけて求める姿、分別する生き方では必ず行き詰まりますよというのです。(次号につづく)
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      獅子座

      獅子座といっても星座の事ではありません。仏像の台座に獅子が彫られていることがあり、これを「獅子座」と呼びます。獅子は沖縄では「シーサー」として魔除けになっています。仏陀の座となっているのは、「百獣の王」とされるライオンを従えているという理解もあります。しかし経典には「実際の獅子を仏が従えているのか」というという質問に、「仏陀こそ人間の中の獅子なのだ。仏陀が座る場所が床でも地面でも獅子座と呼ぶのだ」(望月仏教大辞典)と答えています。 獅子であるという意味は、仏陀が法を説くと、外道の者たちがひれ伏し、魔が退散していくからです。またその姿が何ものにも侵されることのない勇猛な姿だからだといいます。これを「説法獅子吼(説法すること獅子の吼えるがごとし)」(『大無量寿経』)といいます。つまり法が説かれることにより「魔」が退散するのです。これをモチーフとして、別院では紅型で作っていただいた「説法シーサー」を玄関に掛けております。 沖縄別院のご本尊・阿弥陀如来の座は「蓮華座」ですがその台座にはやはり「獅子」が丸まって外陣を見つめています。当別院はご本尊を間近に見れますので、是非一度じっくり確認してみてください。別院では「フーフダ」の販売はありませんが、毎週法話がございます。これこそ本当の意味での「魔除け?」なのかもしれません。誰でもお越しいただけますし、出入り自由です。お気軽に、ご参拝お待ちしております。
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      変化する葬儀・法事

      コロナを機に御法事・御葬儀の形が激変している。全国的にもだが、先祖供養が重視されてきた沖縄での変化は激しいものがあると感じる。コロナ以前から「中陰」「なんか」と呼ばれる、亡くなられてから七日ごとに執り行われてきた行事は略式にされていた。しかし最近は、初七日に四十九日を繰り上げ、さらにその法事を葬儀中に繰り上げて執り行うことがある。まぁ我々生きている人間の都合に合わせて開催するならば、「便利」「早く」「簡単」となるのは致し方ないのかもしれない。しかしよく考えてみると笑い話である。例えば「命」という視点から言えば、亡くなられた日と誕生日が大切になる。その誕生日を毎年するのが大変だからと、前倒しで来年の分まで、または十年先まで繰り上げて開催すると言えば、滑稽な話である。 ついでに昨今は「安く」も重要になっている。最近の報道では、葬儀費用が広告されているより高くなることで指導される業者もあるようだ。お寺へのお布施も、本当は定額があるわけではない。お金がある人はそれなりに、無い人は無いなりに納めていただければよいが、実際はお金があっても故人への供養とは別の基準、すなわち生きている私たちの損得でその額を決めようとする。「命日」という行事を通して、いのちまで損得勘定で計ってしまうのが私たちである。 「お布施」は「志」(こころざし)なのである。その人の経済状況に比して出すのが伝統である。しかし貨幣社会で生きる私たちはついつい「等価交換」ばかりが気になる。1万円を出せば、1万円の「何か」が欲しいのである。 でもこれ以外のお金の出し方もある。贈与である。一例がお年玉かもしれない。沢山の子どもたちの笑顔は戻ってくるが、あまり多いと懐は痛い。まったく等価交換ではない。そういえば近年は自治体への「寄付」と言っても「返礼品目当て」となってしまう。 贈与することは長い時間軸で見れば私自身も贈与される存在であることを教えていただいたことがある。とはいえ、旧正月だからといってお年玉をもう一度あげることは差し控えたい。  
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      イー ソーグヮチ デービル

      輪番 長谷 暢   新年 明けましておめでとうございます。旧年中は、沖縄別院にご厚情を賜り、誠にありがとうございました。 さて、昨年も暑い夏でした。毎年毎年気候変動の影響でしょうか、これまでにない天候が続きます。そんな環境の中でも私たちは、快適さと効率を求めて社会生活を送っています。一方でこれまで伝統とされてきたことが、面倒で、非効率なものとして脇に追いやられつつあります。そのなかに「法事」や「葬儀」など「ウヤファーフジ(ご先祖)」に関わる行事があります。近年ここ沖縄でも急速に変化していると感じざるを得ません。しかし仏教は決して脇に追いやるようなものではないと思います。 昨年4月にたまたまアップルの元副社長の山本賢治さんの講演をお聞きしました。世界の最先端の企業であるアップル社、そこは現代の便利さ、快適さを象徴する「スマホ」を生み出し、世界に普及させました。今やスマホのない生活が考えられないような世代も生まれていますし、私自身もスマホなしでの外出は不安で仕方ありません。 そんなスマホを普及させた人が、講演の中で「私の座右の銘」として紹介されたのが、「The only constant is change」という言葉でした。これを訳すと「諸行無常」となります。いや、諸行無常が英語にこのように訳されているといった方が正確でしょうか。九千人もの聴衆の前で堂々と自らの座右の銘として 「諸行無常」と紹介されていることに大変衝撃を受けました。 翻って、私たち何を「座右の銘」すなわち「拠り所」として生きているのでしょうか。浄土真宗では「念仏」すなわち「浄土」をよりどころとして生きることを、先達から相続してきました。新たな年を迎え、新たに「座右の銘」を、仏教・真宗の教えの中に探す一年とするというのはいかがでしょうか。 クトゥシン ユタサルグトウ ウニゲーサビラ  
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      終っても大事な「こと」

      年末に向かい「店じまいセール」の看板を目にすることがある。お買い得なんじゃないかと思って、さほど必要でない物もついつい買ってしまう。でも一年後も同じ店がまだ「閉店セール」をやっていたりすると、「ああ、お店の戦略にやられた」と苦笑いすることがある。 同じ「しまう」でも近年、お寺に相談や依頼が増えてきているのが「仏壇じまい」「墓じまい」である。どちらも人口減少や社会環境の変化という背景があるといわれるように、それぞれのご家庭の事情を伺うと、継承者がいなかったり、本土に移住していたりという事が多い。 仏教の基本的な教えの一つに「諸行無常」がある。変わらず存在し続けると思っていたものが、実は幻想で、変化していくという事である。在ったものが無くなることもあるし、無かったものが出来上がることもある。この点から言えば、墓も位牌も永遠に存続するものではなく、変化していくのが事実である。 しかしである。仏壇と呼ばれる位牌やお墓を「終う」ことをしても、今生きている私たちにまで「いのち」をつないでくれた過去の人々の歴史が終わるわけではない。今を生き、未来を生きる一人ひとりがいる限り、過去を生きた人々の事実と影響は変わらない。 その人々への想いを確かめる場所として存続してきた仏壇やお墓を「終う」ことしても、その敬意の念であったり、様々な思いはしまわず大切に継承してもらいたいものである。 「ナムアミダブツ」は、いつ、どこに、どんな状況で、どんな性を生きていたとしても、いのちの歴史と私を照らし出してくれる「仏」との関係が相続できる。ぜひお念仏をお勧めください。南無阿弥陀仏
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      現実を知る報恩講

      先月沖縄別院の親鸞聖人「報恩講」を無事お勤めすることができました。たくさんのご参詣をいただき御礼申し上げます。今月は京都のご本山で「報恩講」(11/21-28)が開催されます。機会があれぜひご参拝ください。 さて沖縄別院が設立されて以来十五回目の報恩講となった。私は別院の職員として有難いことにずっと関わることができているが、参詣者の中にもずっと参拝いただいている方もいる。また、ずっと参詣されていたが、もうお参りすることができなくなった方もたくさんおられる。寂しいと思う反面、多くの人が念仏の教えに「恩」を感じるまでに至ったのかと思うと、念仏に感銘するほかない。 さて本年のご講師は能登からお越しいただいた濤恵周(おおなみえしゅう)師で、逮夜のご法話では震災から十ヵ月を経た現在までの状況を詳細にご報告いただいた。印象的だったのは被災された直後は多くの報道があったが、現在はすっかり報道されなくなっていること。そして現在取り上げられるのは、もっぱら「復興」が進んでいる姿ばかりで、作業が進まず、いまだに避難所の中でテントの中に暮らしている人、水道や電気ですらまだまだ復旧していない所があること。特に驚いたのは、水道の復旧が公道までで、そこから自宅の工事は自分で手配するが、なかなか業者が手配できないことなど。 お話を聞きながら、本願の「天眼智通」「天耳智通の願」が頭をよぎった。この本願では私たちが自分の聞きたいこと、見たいことばかりをみて、世界で起きている都合の悪いことを見聞きしないことが指摘されていると了解している。報恩講の場で、遠く離れた能登の現在とその苦悩の現実を教えていただいたことは、浄土の功徳ではないかと感じ、大切な仏法を聞く場となったと思っている。南無阿弥陀仏
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      雑色雑光

      法事で「お経」が読まれても、聞く人は何のことやらわからないけれど、その“わからない”ところに仰々しさを感じる人もあることだろう。しかし、お経にはちゃんと意味がある。「呪文」のような意味がなくとも効果はあるかもしれないというものではなく、ちゃんとした物語が記されている。その物語が私たちの人生のどんな働きがあるのかは、それぞれが聞いて受け止めていくしかない。  『仏説阿弥陀経』と名付けられているお経はお釈迦様の説かれた法話として記されていて、私も僧侶になってから数えきれないほど「読経」してきたが、その意味を一つ一つ勉強することは「読経」に比べれば格段に少ない。それでも法話の際にはいくつかのエピソードを切り口にお話をする。その一つに「青色は青い光を、黄色は黄の光、赤色は赤い光、白色は白い光を放つ」というくだりがあり、浄土という世界では、それぞれがそれぞれの光を余すことなく放っている。個性が尊重される世界なんですよと紹介しながら、現代では「チューリップ」の歌や「世界に一つだけの花」(スマップ)にも表れており、私たちが共感できる世界であると紹介している。 この話をしていたら「世界はそれほどきれいな色ばかりじゃないからなぁ」との指摘を受けた。確かに赤青黄白という綺麗で鮮やかな色は少ない。グレー、茶色、緑、紫、くすんだ色、そんなカラーで世界は溢れている。私たちの個性も同じように「〇〇な人」などと決められるようなことはない。いろんなことが交わりあっている。指摘はその通りだと思った。 ところが『阿弥陀経』の原本には四色に加えて「雑色雑光」と記されている。「雑」は「まじる」という意味である。ちゃんと昔の人もわかっていたのである。私も「雑色」のほうが安心する。皆さんはいかがでしょうか。
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      沖縄と仏教の歴史

      意外と知られていない沖縄の長い仏教の歴史を紹介します

      非戦平和の願い

      フィールドワークのMAPも掲載しています

      お問い合わせ

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