非戦平和の願い

非戦平和の願い

沖縄は第2次世界大戦で本土防衛の「捨石」として激しい地上戦に巻き込まれ、住民、軍人を含め24万人以上の命が「国家の犠牲」として失われました。戦後は米軍の統治下の植民地となり、1972年に日本の施政権下に戻りますが、現在まで相変わらず米軍が広大な土地を占めています。 戦争前の歴史にまで目を向けると、1609年の薩摩の琉球侵攻、1872年に始まる琉球処分と沖縄の歴史は他国に翻弄されて支配され、現在に至るまでさまざまな形態で差別を受け続けている歴史かもしれません。
この沖縄の地で、「御同朋」と呼びかけ常に民衆とともに生きた親鸞聖人に思いをはせるとき、沖縄戦と基地問題への視点を問われるように思います。まさに本願の世界と正反対の「地獄・餓鬼・畜生(殺戮と欠乏と恐怖支配など)」を目の当たりにします。だからこそ「兵戈無用」(ひょうがむよう:兵隊も武器もいらない『大無量寿経』)のお釈迦様のことばに学び、そこから歩みだしたいものです。
沖縄での各種研修会のご提案や平和ガイドのご紹介をいたしております。また毎年1回開教本部が主催する研修会を開催しております。
もちろん楽しい沖縄観光旅行の一コマに、短い時間の研修も提案いたしております。 お気軽に沖縄開教本部(098-890-2490)までご相談ください。

沖縄戦50周年追弔法会 表白

沖縄戦から50年の1995年、真宗大谷派は沖縄県糸満市にある「沖縄平和祈念堂」にて「沖縄戦50周年追弔法会」を開催いたしました。 この法要の主旨を『表白』としてつぎのとおり表明しました。

本日ここに、阿弥陀仏の尊前において、沖縄戦五十周年追弔法要を勤めさせていただくにあたり、私どもの想いを申し上げさせていただきます。

まず、なによりも、この沖縄の地を戦場と化し、戦死という悲惨な死を、数えきれない多くの方々にもたらしてしまいましたことは、もとより、私どもが今日まで、そのことの意味について、本当に心を尽くしてきた歩みであったのかを自問いたしますとき、沖縄の皆様にはお詫びしなければなりません。 いまなお癒されることのない傷跡を負って生きておられる方々のおことばをお聞きいたしますにつけ、その思いを深くするばかりでございます。

かつて、私どもの国が大日本帝国と名のって、以来、国の強大化をはかって、いくたびも戦争を繰り返してきました。そうしたはてに沖縄の島々での戦禍があったといって過言ではありません。

この沖縄戦において、亡くなられた方々は二十五万人余、そのうち沖縄県民の十五万人余の方々が犠牲となって、そのかけがえのないいのちが失われました。これら多くの人びとは砲弾で、また自国の軍隊によって強要された集団自決や、虐殺によるという悲惨なものでありました。 また、朝鮮半島より強制連行されてきた人びとの犠牲も、その足跡は明らかにされていないままであります。

こうした、繰り返されてきた戦争というものの実態と、軍隊のおそろしさがあらわになったのが沖縄戦でありました。にもかかわらず、その後、それらの事実の深淵に思いをいたすことなく、それこそ、ひたすらにこの世の繁栄を求めていくなかで忘れ去っていたのであります。

そのことこそが戦後、現在にいたるまでも、沖縄の方々に戦争の暗い影が重くのしかかっていくことになり、さらには、長い間、私どもの国が侵してきたアジアの国々の人びと、わけても植民地とした国の人びとの痛みと悲しみに満ちた犠牲に、心をよせることをも見失わせてきたのであります。

かえりみれば、戦時中に私どもの宗門は、繰り返されてきた戦争を「聖戦」と呼び、国の繁栄と発展のための正しい戦争であるとして、多くの同朋を戦場に送り出すという罪業を重ねてまいりました。

まことに申し訳のないことでございます。

もとより、宗祖親鷺聖人が見いだされた阿弥陀仏の誓願は、どこまでも罪悪深重煩悩熾盛の衆生として、この世にあって罪悪をまぬがれず、とどまることのない欲求にとらわれている、そういう衆生のひとりとしての私自身を照らし出してくる教えであります。その衆生のひとりに立ち帰ってこそ、お互いが生あえる世界が開かれてくるのであります。

いったい、私どもの願う平和とはどういう平和なのか。 戦争だけがいのちを犠牲にするのではなく、今日言われますところの平和もまた、多くのいのちをそこなっていくという、そうした私どもの在り方が問われなければなりません。

いま、この時にあたり、真宗大谷派、全宗門の名において非戦の誓いを新たにいたすとともに、二度とふたたび、このような戦争による犠牲者を出して欲しくないという、戦没者はもとより、あとに残された方々が祈ってこられた、その祈りをこそ生きる者として、平和の礎を明らかにしていくことを、この沖縄の地で誓うものであります。

1995年3月5日
真宗大谷派宗務総長 能邨 英士

非戦決議2015

真宗大谷派の最高議決機関であります宗会(宗議会(僧侶議員で構成)・参議会(門徒議員で構成))において沖縄の事に触れた「非戦決議2015」が可決されました。

私たちは過去において、大日本帝国の名の下に、世界の人々、とりわけアジア諸国の人たちに、言語に絶する惨禍をもたらし、佛法の名を借りて、将来ある青年たちを死地に赴かしめ、言いしれぬ苦難を強いたことを、深く懺悔するものであります。

この懺悔の思念を旨として、私たちは、人間のいのちを軽んじ、他を抹殺して愧じることのない、すべての戦闘行為を否定し、さらに賜った信心の智慧をもって、宗門が犯した罪責を検証し、これらの惨事を未然に防止する努力を惜しまないことを決意して、ここに 「不戦の誓い」を表明するものであります。


さらに私たちは、かつて安穏なる世を願い、四海同朋への慈しみを説いたために、非国民とされ、宗門からさえ見捨てられた人々に対し、心からなる許しを乞うとともに、今日世界各地において不戦平和への願いに促されて、その実現に身を捧げておられるあらゆる心ある人々に、深甚の敬意を表するものであります。

私たちは、民族・言語・文化・宗教の相違を越えて、戦争を許さない、豊かで平和な国際社会の建設にむけて、すべての人々と歩みをともにすることを誓うものであります。

『不戦決議』(1995年)

戦後50年を経た1995年6月、真宗大谷派は、人類の願いを「不戦の誓い」として表現しました。
私たちは、この決議の重みを再確認し、あらためて平和の意味を問いたいと思います。
決議より20年、戦争の悲惨さと愚かさに対する人々の感覚は風化してきています。その風化は、現在も、基地問題で苦しむ沖縄の人たちの心に向き合おうとせず、戦争に向かう状況を生み出そうとしています。
私たち人間の生きざまを憐れんで「国に地獄・餓鬼・畜生あらば、正覚を取らじ」と誓い、法蔵菩薩は、浄土を建立されました。
永い人類の歴史は、人が人を殺し、傷つけ合う悲しみの連続でありました。如来の願心は、自我愛を正当化して「賜ったいのち」を奪い合うことを悲しみ、私たちに「共に生きよ」と呼びかけておられます。
この呼びかけに応じ、「殺してはならぬ、殺さしめてはならぬ」という仏陀の言葉を如来の悲願と受け取り、あらためてここに「非戦の誓い」を表明いたします。
そして、世界の人々と積極的な対話を通じて「真の平和」を希求してまいります。

上記決議いたします。 

2015年6月9日
真宗大谷派 宗議会議員一同

2015年6月10日
真宗大谷派 参議会議員一

非戦平和

主に戦跡・基地問題に関する訪問先を地図にしております。ご参考ください。

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