東本願寺沖縄別院について

東本願寺沖縄別院

東本願寺沖縄別院は宜野湾市森川公園近くにある真宗大谷派(東本願寺)のお寺です。
1993年に浦添市屋富祖(その後宜野湾市大謝名に移転)に「真宗大谷派沖縄開教本部」が設置され、県内各地で仏教講座を開催してきました。
その後2010年4月にマカレー東本願寺(米国ハワイ州)のご本尊を受け継いで東本願寺沖縄別院が設立され、本部と別院が一体となって沖縄の地で真宗の教えを聞く場を開いています。

東本願寺沖縄別院

玉代勢法雲 (たまよせ ほううん)

玉代勢法雲師は沖縄別院とは深い関わりのある方です。「琉球処分」の直後に設立された「琉球別院」で得度し、おそらく沖縄の方としてはじめて真宗大谷派の僧侶となった方です。法雲師はたくさんの業績を残しておられます。すべてが「優れた」と評価される業績ではないかもしれませんが、現在も引き継ぐべき大切な「こと」「もの」を残していただいております。ご関心がある方はいつでもお寺にお越しいただき、ご本尊が梵鐘をご覧ください。喜んでお迎えいたします。 

玉代勢法雲

沖縄別院の本尊、須弥壇、梵鐘などは、マカレー東本願寺で崇敬されていたものを礎としている。そのマカレー東本願寺の設立者が左の玉代勢法雲である。 玉代勢法雲は、1881年那覇に生まれた。真宗法難事件から4年、琉球処分の2年後である。法難を乗り越えた門徒たちも信教の自由が認められ、早速、大谷派が布教の歩みを始めた頃である。法雲の仏縁は、彼の祖母に起因する。法雲の祖母は篤信な女性で、当時完成したばかりの那覇説教所へ毎朝欠かさず法雲少年を伴って参拝していた。それが田原法水の目に止まり、出家得度することとなり、1890年、満9 歳のとき琉球別院にて得度し、「法雲」の法名を貰う。
さて少年法雲は勉学に励み、真宗京都中学に入学する。卒業後、東京巣鴨の真宗大学へ進み、南条文雄のもとで学び、大学卒業後も華厳経の翻訳事業に従事する。 数年後、郷里沖縄に帰り布教活動に従事するが、39歳のとき開教使としてハワイへ渡ることになる。当時沖縄系移民は、ハワイ在住の同じ日本人の中にあっても不当な差別を受けていたという。法雲は、同郷の人々の苦しみを目の当たりにして、この不当な差別や偏見を克服することが己の使命と感じ、生涯ハワイ在住沖縄県人の地位向上に尽力した。後年、法雲は「沖縄人社会でもっとも学識のある影響力の大きい人物の一人であった」(『ISSEI』より)と評されている。
1936年にスミス布教所を移設し、新たに布教拠点となるべくマカレー東本願寺を建立する。その後も75歳で亡くなるまでハワイ各地において精力的に布教活動に従事している。法雲の人生をふり返ってみれば、その歩みは伝道を軸とし、常に沖縄の人々と共にあった。それは1876年に単身琉球に渡り、門徒とともに弾圧事件を乗り越えた師の田原法水との出遇いが、彼にその人生を歩ませたのかもしれない。

玉代勢法運ヒストリー

「ひやみかち節」誕生の立役者

「ひやみかち節」誕生の立役者 戦後の沖縄、人々が好んで演奏し踊った一曲に「ひやみかち節」があります。悲惨な沖縄戦と厳しい米軍統治下の沖縄にあって、人々の気持ちを高揚し、元気づけた曲だといいます。この曲の誕生の契機を作ったのが、玉代勢法雲師でした。

「ひやみかち節」は琉球・沖縄の音楽学者であり音楽家として知られている山内盛彬(やまうちせいひん)によって作曲されたものですが、その経緯については諸説ありました。2013年頃、盛彬のひ孫の盛貴さんが遺品の中から一通の手紙を発見しました。そこには平良新助の直筆で記された「ひやみかち節」の詩がしるされていました。新助は沖縄の自由民権運動を支え、のちに渡米した人物です。この詩に曲をつけて荒廃した沖縄から立ち上がる人々を元気づけようと、法雲は盛彬に作曲を依頼しているのです。その冒頭には「お経に添えて」と法雲のメモ書きが残されています。戦禍を生き抜いた人々を元気づけることと併せて、戦没者への追悼の思いも込められていると考えられます。
平良新助と法雲の関係はよくわかりませんが、盛彬とは戦前から交流があり、『山内成彬選集』には戦前に首里の一角に存在し「被差別民」とされていた「念仏者(ニンブチャー)」の集落を共に訪問した記録も残されています。
詳しくは次の新聞記事をご参照ください。


20181230新報ひやみかち節の記事

琉球大学創立に関わる

戦後間もない1950年に開学したのが琉球大学です。この設立に一役買ったのが法雲師でした。戦後復興は確かに「物」が必要でしたが、将来を見据えていち早く人々の高等教育の必要性をうったえたのがハワイをはじめ海外の沖縄人の組織でした。開学に先立つ1949年、蓮如上人450回忌法要のために来日した法雲師は、その足で米軍統治下の沖縄に来琉しました。法雲の自伝にはその時の様子が次のように記されています。
「ハワイでは沖縄救済厚生会という団体ができて、沖縄の復興は教育よりというモットウを掲げ沖縄大学の建設を企画していました。ところが一方では進駐軍の方でも琉球大学を建設する計画がある由を聞いたので~中略~是非とも現地へ行って話し合う必要があるという考えから、私は右厚生会の顧問という資格でGHQに琉球行きを請願しましたところ、幸いにして許されましたので5月15日羽田空港を発し5時間後に那覇飛行場に安着しました。翌日は志喜屋知事、比嘉秀平、山城篤男等の諸君と共に軍部の要人と会見、大学問題を議しましたところ、彼我の意見全く一致し、軍部の手で大学を建設、ハワイはこれを応援するという了解を得て私の使命を全うしました」


琉球大学の『琉大創立物語』

「兵戈無用の鐘」を鋳造

「兵戈無用の鐘」を鋳造 現在沖縄別院の梵鐘は、法雲師が建立したハワイのマカレー東本願寺から継承した「兵戈無用の鐘」です。蓮如上人450回御遠忌法要に参詣した際に、記念に鋳造されました。 法雲師は戦争中は米国においては自身は捕虜として収容され、また何人かいる子どもたちのうち、ある子は米兵となり、ある子は日本兵となり、敵味方に分かれて戦争を行いました。
1949年に日本を訪れた際、その足で沖縄に来琉する機会があり、戦後間もない荒廃した沖縄の姿を目の当たりにしました。その光景は彼が知っている故郷の地とはかけ離れていたことでしょう。また彼の多くの友人や親せきも沢山戦争の被害にあい、亡くなっておられたに違いありません。
そんな経験をした法雲師が鋳造した梵鐘には「兵戈無用」の一句が含まれる『無量寿経』の言葉が刻まれています。「兵戈無用(ひょうがむよう)」とは「軍隊も武器も無用である」といういみです。梵鐘にこの一文が刻まれることは稀なことで、法雲師の思いが強く表れていると考えられます。家族を引き裂き、人々を死に追いやる戦争を経験し、平和への思いが強かったのではないでしょうか。この一句のほかにも、聖徳太子の『十七条憲法』一つである「和以為貴」一文も刻まれています。
当別院では、年末にこの梵鐘で「除夜の鐘」を開催しています。一年の最後に法雲師の平和への思いが込められた鐘を撞き、新たな年をたくさんの方が迎えておられます。

アクセス

東本願寺沖縄別院

住所 〒901-2223
沖縄県宜野湾市大山2丁目32−21
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電話 098-890-2490
受付時間 9:00〜17:00    
受付可能日 平日(土・日・祝日除く)