変化する葬儀・法事
コロナを機に御法事・御葬儀の形が激変している。
全国的にもだが、先祖供養が重視されてきた沖縄での変化は激しいものがあると感じる。
コロナ以前から「中陰」「なんか」と呼ばれる、亡くなられてから七日ごとに執り行われてきた行事は略式にされていた。
しかし最近は、初七日に四十九日を繰り上げ、さらにその法事を葬儀中に繰り上げて執り行うことがある。
まぁ我々生きている人間の都合に合わせて開催するならば、「便利」「早く」「簡単」となるのは致し方ないのかもしれない。
しかしよく考えてみると笑い話である。例えば「命」という視点から言えば、亡くなられた日と誕生日が大切になる。
その誕生日を毎年するのが大変だからと、前倒しで来年の分まで、または十年先まで繰り上げて開催すると言えば、滑稽な話である。
ついでに昨今は「安く」も重要になっている。
最近の報道では、葬儀費用が広告されているより高くなることで指導される業者もあるようだ。
お寺へのお布施も、本当は定額があるわけではない。
お金がある人はそれなりに、無い人は無いなりに納めていただければよいが、実際はお金があっても故人への供養とは別の基準、すなわち生きている私たちの損得でその額を決めようとする。「命日」という行事を通して、いのちまで損得勘定で計ってしまうのが私たちである。
「お布施」は「志」(こころざし)なのである。その人の経済状況に比して出すのが伝統である。しかし貨幣社会で生きる私たちはついつい「等価交換」ばかりが気になる。1万円を出せば、1万円の「何か」が欲しいのである。
でもこれ以外のお金の出し方もある。贈与である。一例がお年玉かもしれない。
沢山の子どもたちの笑顔は戻ってくるが、あまり多いと懐は痛い。まったく等価交換ではない。そういえば近年は自治体への「寄付」と言っても「返礼品目当て」となってしまう。
贈与することは長い時間軸で見れば私自身も贈与される存在であることを教えていただいたことがある。
とはいえ、旧正月だからといってお年玉をもう一度あげることは差し控えたい。