「感傷に流されない」
10月半ばに親鸞聖人の御旧跡巡りをする機会をいただいた。京都にある場所だけではあるが、誕生の地にある「誕生院」「法界寺」、得度された「青蓮院」、若き日に修行した山「比叡山」、比叡山から通い詰めた「六角堂」、法然と邂逅した寺々と知恩院。2日間で約3万歩も移動し、疲れはたまって紅葉はまだ始まっていなかったが、心地よい季節で観光客も比較的少なく、親鸞聖人に思いをはせる時間を過ごすことができた。
特に常行堂から聞こえてくる修行僧の念仏の声には、心打たれるものがあり、親鸞さんもこのような生活を送っていたのかなぁと感傷にふけりそうになった。
しかし、ここで注意が必要である。親鸞聖人は修行時代のことをほとんど語っておられない。どんな修行をし、どんな生活であったかをである。最近ある先生がお話しされていたのであるが、親鸞が比叡山時代のことを書き記さなかったのは、それを見た後の人々が、修行をして初めて本願念仏が受け取れると誤解することを避けるためだったのではないかと。確かに同じように修行してこその本願念仏にたどり着くという信心の行程を描きたくなる。実際、今回訪ねた寺院の多くには、親鸞聖人の足跡が記されており、親鸞聖人をそれぞれの寺院から輩出したかのような扱いがなされている。
しかし実際は、「修行」を捨て、専ら称名念仏で助かる教えを流布する法然・親鸞に対し、厳しい拒絶と弾圧を加えている。
親鸞聖人が私たちに残されたのは、自分を頼みとして修行し、その頂点にある念仏の教えではない。自分を頼りとする姿が問われ、日常のこの生活の上に開かれていく本願念仏の教えなのである。
歴史探訪としての「御旧跡巡り」は、それはそれとして楽しいものである。しかし、うっかり感傷に浸って、親鸞聖人の願いを無駄にしてはなるまい。