コラム

「念仏には、無義をもって義とす」

先月の別院だよりの「無義の義」 について少し私の了解するところを述べたい。

この言葉は歎異抄に出てくる言葉で「念仏に対しては、私共の思慮分別(はからい)を加えないことをもって本義といたします」

(多屋頼俊訳『歎異抄』)という意味として受け取っている。

念仏の教えが「無義」 なのではなくて、念仏の教え・本願に向き合う私たちの姿がが示されていて、このことがわかっていないから

「異義」が生まれるのだという。(参考『歎異抄』阿満利麿)

さて、 今建設が進められている辺野古の新基地については、 多くの反対がある中、賛成する少数の人がいるのは確かである。

中には生活の糧を見出そうとする人もいることは事実であろう。しかし一方で、そこにつぎ込まれる莫大な税金は、

私たち一人ひとりが支払っている一部であることも間違いない。

このような賛否が分かれる事象は無数にある。 身近な事から世界で起きている戦争、環境問題にまである。

いや意見が対立しない事象などないのかもしれない。 例えば先月は沖縄戦から八十年を迎えたが、 世界はますます

「命どぅ宝」 を蔑ろにする論調が広がっている。「命は平等である」という事が自明のことでなくなりつつあるように感じている。

この「命は平等である」ことについて賛否がある際、念仏はどちらにも立たないという事を先の言葉が表しているわけではない。

弥陀の本願はすべての命が平等であるとしている。

この本願に対して私の都合をよりどころとして、「よい」とか「わるい」とか、「はからい」を加えないという事が、

「無義をもって義とす」とすという事が、指し示すことなのであろう。