コラム

「かわいそう」と思う「日ごろの心」①

先月ある法座で聞いた話が私の心にグサリと突き刺ささりました。
私たちが人生で大切にしているものは何かというアンケートをとると、「①健康・②家族・③お金」という結果となるようです。
そしてこの基準に漏れている人を「かわいそうな人」だと誰もが勝手に思っているというのです。

自分のこともそうですが、他人のことだと特によくこの私たちの心が現れます。
例として挙げられたのが、あるエリート社員が、ガンを患ったことをきっかけに、退職し、離婚することになってしまったそうです。
それでもお子さんと生きていくために、病状が回復した際に、次の仕事をしするための準備のため借金をしたそうです。

その矢先に再発して亡くなられたそうです。この人は地域では面倒見の大変良い、「いい人」だったので、住職も含めて「かわいそうに」と思ったそうです。
通夜の際には弔問の人が長い列をなし、口々に喪主の息子さんに「かわいそうに」と声を掛けられたようです。ところが葬儀の最後に喪主の挨拶で息子さんは「父はかわいそうな人ではありませんでした」と言ったそうです。
それを聞いた住職はドキッとしたというのです。

私も話を聞いていてドキッとしました。
わたし自身が、幸せの条件を「健康、家族、お金」としているので、それらから漏れている人を「かわいそう」と思っているのです。
しかしすぐわかることですが、この条件はいずれも「無常」なるものです。
時と場合によってどんどん変わっていくものです。

これが私たちの「日ごろの心」の内実です。
親鸞聖人はこの心では浄土に往生できないとおっしゃいました。
つまり幸せになるために「健康と家族とお金」という物差しで、自分と他人を「測って」比較して、それを追いかけて求める姿、
分別する生き方では必ず行き詰まりますよというのです。(次号につづく)