雑色雑光
法事で「お経」が読まれても、聞く人は何のことやらわからないけれど、その“わからない”ところに仰々しさを感じる人もあることだろう。
しかし、お経にはちゃんと意味がある。
「呪文」のような意味がなくとも効果はあるかもしれないというものではなく、ちゃんとした物語が記されている。
その物語が私たちの人生のどんな働きがあるのかは、それぞれが聞いて受け止めていくしかない。
『仏説阿弥陀経』と名付けられているお経はお釈迦様の説かれた法話として記されていて、私も僧侶になってから数えきれないほど「読経」してきたが、その意味を一つ一つ勉強することは「読経」に比べれば格段に少ない。
それでも法話の際にはいくつかのエピソードを切り口にお話をする。
その一つに「青色は青い光を、黄色は黄の光、赤色は赤い光、白色は白い光を放つ」というくだりがあり、浄土という世界では、それぞれがそれぞれの光を余すことなく放っている。
個性が尊重される世界なんですよと紹介しながら、現代では「チューリップ」の歌や「世界に一つだけの花」(スマップ)にも表れており、私たちが共感できる世界であると紹介している。
この話をしていたら「世界はそれほどきれいな色ばかりじゃないからなぁ」との指摘を受けた。
確かに赤青黄白という綺麗で鮮やかな色は少ない。
グレー、茶色、緑、紫、くすんだ色、そんなカラーで世界は溢れている。
私たちの個性も同じように「〇〇な人」などと決められるようなことはない。
いろんなことが交わりあっている。
指摘はその通りだと思った。
ところが『阿弥陀経』の原本には四色に加えて「雑色雑光」と記されている。
「雑」は「まじる」という意味である。
ちゃんと昔の人もわかっていたのである。
私も「雑色」のほうが安心する。
皆さんはいかがでしょうか。