- 「今を去ること500年前、沖縄は仏教王国であった」これは沖縄仏教史の研究者である知名定寛氏の『琉球仏教史の研究』の指摘である。一般的に仏教と縁がないと思われている沖縄であるが、歴史家がこう記すほど、仏教が取り入れられた時代もあったのである。 琉球最古の仏教伝来の記録としては、13世紀の中頃、英祖王(1260年即位)の時代に禅鑑と称する僧が、那覇に漂着し浦添城の西に極楽寺を建立したことである。その後、仏教の庇護者として尚泰久王(1454年即位)、全盛期として尚真王(1477年即位)時代があげられる。当時の沖縄の仏教寺院の多くは、ノロの制度と同じく、国家体制の補完としての機能が中心で、仏教の教義をよりどころとした大衆のための宗教とは異なったものであったと考えられている。また僧侶は京都へ多く派遣され、外交使節としても薩摩に派遣されていた。当時の僧侶の社会的地位は高く、政治の世界にも進出していき、僧侶になることが政治家への近道といわれ、「坊主の頭や三可官(大臣)と同待遇」ともいわれた。
- 1609年、薩摩は琉球王国を侵攻し、沖縄は薩摩藩の政策に大きな影響を受けた。沖縄の仏教においては1659年、一向宗が禁制とされ、他の宗派においても様々な制限が加えられた。人を集めて説教をしてはいけない、俗家へ参ってはいけない、儒道を学ぶべきこと、などがあった。また京都へ留学が制限され寺院の建築や修理も自由にできなかったため、僧侶はその活動範囲が縮小され、仏教は加速度的に衰退していったとされるが、そもそも多くが「官寺」として民衆によって支えられた寺院ではなかったため、国の状況によってかなり左右されることとなったのである。そのため琉球処分後は、その維持経営に苦心し、廃寺していく寺も多く、僧侶の数も減少する一方であった。こうして、尚真王の時代(1477年)には首里の町を中心に点在した寺院は明治の末期には、20数ヶ寺にまで減少していた。
- 1603年
- 浄土宗僧侶、袋中(たいちゅう)上人が渡来。後世のエイサー踊り(念仏踊り)や
ニンブチャー(念仏者)に影響を与えたという。
- 1609年
- 島津軍が侵攻し、琉球国は支配下におかれる。以後、薩摩藩の政策により仏教寺院は衰退する。
- 1659年
- 琉球において真宗が禁制となる。※この時期までに琉球に真宗が伝わっていたかは不明。
- 1839年
- 知念仁屋仏像持下り事件。知念仁屋が、鹿児島より本尊を持ち帰り監禁される事件が起きる。
- 1853年
- 仲尾次政隆の法難事件。念仏信仰が露見し、仲尾次政隆は八重山へ無期の流刑。信徒300名以上が処罰される。
- 1876年
- 田原法水来琉。備瀬知恒と共に辻遊郭を中心に布教を始める。
- 1877年
- 備瀬知恒の法難事件。中心人物の備瀬知恒は、翌年八重山に流罪になるも配所
へむかう途中に難船のため溺死する。信徒369名が処罰される。
- 1879年
- 真宗の禁制解かれる。
- 1882年
- 那覇説教場新築のため、那覇西村事遺産の箭海岸400坪を埋立てる。
- 1884年
- 那覇説教場落成。
- 1889年
- 那覇説教場が琉球別院となる。
- 1892年
- 琉球別院が真教寺となる。開基住職は田原法水。
- 1932年
- 真教寺、新本道落成。
- 1935年
- 田原惟信、真教寺第3代住職となる。
- 1944年
- 「10・10空襲」により真教寺全焼。
- 1974年
- 真教寺本堂、再建される。
- 1993年
- 東本願寺沖縄問教本部事務所が設立(浦添市)。
- 1994年
- 沖縄戦50周年追弔法会厳修。
- 1997年
- 東本願寺沖縄開教本部事務所を宜野湾市大謝名に移転。
- 2010年
- 東本願寺沖縄別院、設立。※開教本部は別院内に移設
- 戦前の旧真教寺
- 薩摩の琉球侵攻後の1659年、一向宗=真宗の禁制令が沖縄に出され宗門改めが行われるようになった。その禁制は琉球処分が断行される1879(明治12)年まで続いた。沖縄に一向宗=真宗がいつ伝来したのかは不明であるが、確認されている最も古い文献では1767年に沖縄の講(信者のグループ)から京都の西本願寺に献上物が届けられたという記録がある。一方、禁教とされた真宗の信仰を持った人々が3度の摘発された記録が残されており、これを「真宗法難」とよび、伊波普猷の『浄土真宗開教前史』に詳しく記されている。 最初の法難は1839年に鹿児島から本尊(阿弥陀仏像)を持ち帰って摘発された「知念仁屋仏像持下り事件」があるが背景などは詳しくわかっていない。
- 那覇泉崎に生まれる。その先祖は、京都から薩摩の久志浦に移住したといわれ、代々真宗の門徒であった。4代前の中村宇兵衛が薩摩から琉球に移り住み、琉球の妻との聞に5男をもうけ、その長子が仲尾次家を称した。政隆は若くして官職につき、大和横目、那覇総横目などの要職を歴任している。そして官職の身でありながら、当時琉球で禁制となっていた真宗をひそかに信仰していた。さらに政隆は自身の信仰だけに留まらず、念仏講を結成し那覇の遊郭で遊女たちを中心に積極的に布教活動に取組んだ。 しかし、信者が増え次第に人目につくようになり、1853年政敵によって密告され、信徒らとともに拘留され取調べをうける。結果、政隆は八重山へ無期の流刑、他の信徒もそれぞれ処罰された。配流地の石垣島では、流人の身で宮良橋を再建し、その功により赦免され11 年ぶりに那覇に帰された。享年62歳。伊波普猷(いはふゆう)は、その著書のなかで「仲尾次政隆は近代沖縄の宗教的偉人J (『浄土真宗沖縄開教前史ー仲尾次政隆と其背景』より)と評している。
- 那覇東村の出身。仲尾次政隆の布教のもとで真宗に帰依する。1853年の仲尾次政隆の法難事件の際、彼は商用で奄美大島に渡っていたため難を逃れた。その後数年間奄美諸島を流浪し、1861年になってようやく帰郷する。そして政隆のあとをついで真宗布教を再開し、ひそかに本尊を拝し、自宅や辻遊郭で講話をおこなった。1876年、大谷派僧侶田原法水と出会い互いに協力・連携し、より布教がすすめられることになる。しかし急激に信徒が増えたことが災いし、その活動が役人に見つかり、翌1877年10月、備瀬知恒以下信徒たちが次々と検挙され、結果300人以上の信徒が処罰されるという大事件に発展した。備瀬知恒は、事件の中心人物と見なされ仲尾次政隆と同じく八重山へ10年の流刑に処せられたが、翌年八重山ヘ送られる途中、宮古島付近で難船し溺死したとされる。琉球における真宗の解禁と、信徒一同の赦免は、彼の死の翌年のことである。享年59 歳。仲尾次の高弟としてその意志を受け継ぎ、真宗禁制下の琉球で罪科を恐れず布教し、その法灯を田原法水に伝えるという重要な役割を果たした人物である。
- これらの法難の後、真宗大谷派の僧侶・田原法水、本山派遣の小栗憲一らのはたらきにより、琉球処分と時を同じくして1879(明治12)年、真宗の禁制が解かれた。